八重瀬町ガイドの会事務局
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沖縄県島尻郡八重瀬町字具志頭659番地
 
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           謝花昇ゆかりの地を歩く  
〇まち歩きコース
 ①東風平運動公園謝花昇銅像前PA(集合)~②謝花昇銅像~③上杉茂憲県令顕彰碑~④間切番所跡~⑤義村御屋敷跡~⑥東風平の馬場~⑦謝花昇生家~⑧字東風平町内~⑨謝花昇銅像前PA(解散)

 東風平が生んだ農村出身の神童が東京帝国大学農科大学を卒業後、沖縄の発展のために県庁に就職したが、奈良原繁県令と争い近代沖縄における民権運動の祖となり、志半ばでたおれる謝花昇の生涯を解説します。
 東風平運動公園 ②謝花昇銅像  ③上杉茂憲顕彰碑  
「学事は東風平を以って標的とせよ」

 
全県視察時、東風平を訪問して小学校が10校(全県14校中)設立されているのを視察し訓示した。
 ④東風平小学校発祥の地
明治14年に設立され、2022年現在創立142年を向かえる。謝花昇は第1期生であり、その他多くの偉人を輩出している。八重瀬町では最多の児童数を擁する小学校となっている。

    参照:東風平小学校ホームページ


ご要望により総合学習等に対応するまち歩きコースを調整できます。


ご要望により平和学習講話及び八重瀬町内の他の戦跡を活用した平和学習ができます。



 
 設立  2013年(平成25年)9月
会長  嘉数 千秋
構成員  22名 (2024年5月現在)
 事務局   八重瀬町観光物産協会内

 インスタ yaesechogaidonokai

 やえせのシーちゃん

謝花昇の生涯(年表)
西暦  年号  日本 琉球国・沖縄県 謝花昇 年令
 1865  慶応元年    9月28日生誕 東風平 誕生
 1868  明治元年  明治維新    
 1871  明治4年  廃藩置県  鹿児島県に属す  
1872 明治5年 ・琉球藩 尚泰が藩王に冊封される  村学校に通う   8才
 1877  明治10年  西南の役  義村御殿に奉公 ※1  13才
 1879 明治12年 ・沖縄県誕生(琉球処分)
・旧慣温存策
 ※2
 15才
1881 明治14年   板垣退助自由党結成 第2代県令 上杉茂憲  沖縄師範学校入学
 第1回県費留学生選抜
 18才
1882 明治15年  学習院中等科へ入学  19才
1885 明治18年  内閣誕生  東京山林学校へ入学  21才
1886 明治19年  大日本帝国憲法発布  東京農林学校へ入学  22才
1891 明治24年   帝国大学農科大学卒業
 沖縄県庁に就職(技師)
 27才
1892 明治25年  第4代県知事 奈良原繁着任
1894 明治26年  日清戦争  開墾主任解任  30才
1896 明治29年  「沖縄糖業論」を刊行  32才
1898 明治31年   農工銀行取締役  34才
1899 明治32年   政治団体「沖縄倶楽部」を設立
 東京で暴漢に襲われる
 35才
1900 明治33年   農工銀行取締役解任  36才
1901
1904
明治34年
~37年 
1902 日英同盟
1904 日露戦争
1903 旧慣温存策終了  山口県へ赴任中 神戸駅で発病  37才
1908 明治41年     奈良原知事退任(16年間在任)  10月29日 逝去  44才
1912 大正元年    沖縄初の衆議院選挙
   参 考
 ※1 義村按司(義村朝明)
 
首里の上級士族で按司の位にあり、義村御殿(ウドゥン)と呼ばれた。義村家は東風平間切の総地頭職の家であったため朝明が地頭職を継ぐ。間切が疲弊してきたため実に6年間も陣頭指揮をとり復興に力を注いだ。明治12年琉球処分に際し、朝明は頑固党と呼ばれた親清派に属し明治政府に徹底的に抵抗した。1896年(明治29年)琉球独立の夢は捨てきれず、息子・朝真とともに中国へ渡り(脱清)、琉球国救国陳情活動を続けたが、もはや日清戦争に敗れた中国にその力はなく、1898年朝明は異郷の地で没した。
 ※2 旧慣温存策
 明治政府の沖縄県統治に対する方針は「本土から遠隔の地であり、おのずから民族の歴史・生活習慣・行事などが異なる」という理由で古い制度をそのまま残し、西南戦争等の士族反乱の教訓とおもえる急激な改革を控える政策をとった。旧慣とは土地・租税・地方制度であり、有給士族(按司・親方・親雲上)は従来の俸禄を得たが、無録の下級士族は生活が困窮した。農民は琉球国時代からの人頭税ほかの租税制度が続けらた。
 第2代県令上杉茂憲は沖縄県各地を巡視、「上杉県令沖縄県巡回日誌」には重税と貧困に困窮している農村の実態と大きな屋敷に穀倉を一杯にしている富裕な地方役人の存在であった。さらに農民を不当に搾取している下級役人の姿であった。教育(県費留学生派遣等)と勧業を重点に政策に取り組んだが、明治政府は旧慣の改正は時期尚早と受け入れられず、二年の任期で旧慣を維持する政策の県令に交代した。

参考図書:教養講座「琉球・沖縄史」 
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